妹論 第三回
「ただいま」
家の扉の鍵を空けても返事はない。私が学校から帰ってくる時間には、大抵家族の誰も帰って来てはいない。私は二階にある自分の部屋へ向かう。ソックス越しにフローリングの冷たさが伝わってくる。
リボンだけ外して制服のままベッドに寝転ぶ。
「静かだなぁ…」
いつもの事だ。両親は昔から共働きで帰りが遅い。
両親とは言ったもの、本当の親ではない。私は幼い頃この家に引き取られた、言わば"もらわれっ子"である。実の両親の顔は知らない。だけど引け目を感じた事は無い。この家族は、私の事を本当の家族として受け入れてくれた。真っ当に育ててくれた。
「ハァ…」
ため息を一つ吐いてベッドから起き上がる。そのまま私は自分の部屋を出て、隣の部屋へ向かう。
部屋に入る。自分の部屋とは違う匂いがする。お兄ちゃんの部屋。お兄ちゃんと言っても実の兄ではない。理由は、先述の通りである。
お兄ちゃんのベッドに倒れ込むように突っ伏す。
「すーっ」
大きく行きを吸い込む。身体の中が、私の好きな人の匂いで満たされる。
私は、お兄ちゃんが好き。
これが私が家に一人でいる時の通常業務だ。こうして自分の身体に染み込ませる。毎日毎日。
実の両親を知らず、施設で育った子供というのはどこか心に隙間を持っている。自分とは何か、他人とは何か。分からない。難しく言えば、アイデンティティが無い。とにかく、私は幼いながらも私という存在の意味を求めていた。
あるとき私に家族ができた。つまり、私に里親を名乗り出てくれた家族があったのだ。その後どういった手続きを経て、私は家族の一員になったのかは、もう憶えていない。だけれど、唯一おぼえていることがある。
嬉しいという感情。家族ができたという事。そして、
お兄ちゃんができたという事。お兄ちゃんが私の心の隙間を埋めてくれた。
お兄ちゃんは私に、本当の妹の様に接してくれた。いや、きっと実の妹以上に大切にしてくれたんだと思う。兄を持つ友達と話していると、世間一般の兄妹仲の程度というものが分かる。それに比べたら、きっと私たちは"仲がいい"兄妹なんだと思う。
私は、お兄ちゃんが好き。一人の男性としてのお兄ちゃんが。
好きになった理由なんて分からない。気づいた時にはもうお兄ちゃんを一人の男性として意識していた。
私の事を誰よりも分かってくれた。
私に誰よりも優しくしてくれた。
私のことを誰よりも大切にしてくれた。
たったそれだけの事。でもそれって、世間一般の女の子が恋をする理由としては普通のこと。じゃあ兄妹間であったとしても?
私はこの気持ちを幸せな事だと思っている。好きな人がいる、それってすごく幸せな事なんだ。だけど…
お兄ちゃんを一人の男性として好き、ということは、つまりお兄ちゃんの事を"所詮他人"とどこかで考えているからじゃないのだろうか。だってそうだ。実の兄であったら好きになっていたか、恋をしたか。いくら大切にされたとしても、実の兄に恋をするだろうか。
きっとしない。
私はお兄ちゃんの気持ちを裏切っている。お兄ちゃんは私の事を
実の妹
として思ってくれている。なのに私は、お兄ちゃんの事を
他人
と思っている。自分の考えている事は自分が一番分かっている。そう、私はお兄ちゃんの事を
これっぽっちも"兄"
として認識していない。一人の男性として見ている。私がこの恋を正当化してしまったら、それはお兄ちゃんに対する裏切り。
お兄ちゃんは本来"他人"である私に"妹"として接してくれた。"妹"として大切にしてくれた。なのに私はお兄ちゃんの事を"兄"として見ていない。こんなの裏切りでしかない。やっと与えてもらえた居場所を、アイデンティティを否定する事になる。同時に私の中には
お兄ちゃんに、自分の事を一人の女として見てほしい
という想いが芽生えている。それもまたお兄ちゃんを裏切る想い。自分を否定する想い。
妹になりたいのか、なりたくないのか。女として見て欲しいのか、欲しくないのか。
自分でもわからない、ウソ。本当はわかってる。
妹じゃ嫌だ、女として見て欲しい…
「…よし」
充分身体は満たされた。いや、ウソ。本当はお兄ちゃん本人に抱きしめてもらえるのが一番なんだろうけど…今はこれでガマン。
私はその後、お兄ちゃんが帰ってくるまで宿題をした。お兄ちゃんが帰ってきたら勉強を教えてもらう口実で、2人だけの時間ができるのを期待しながら。